祈る人

なんと!

日本という国は
「コンビニ」と「神社」の数を比べたら
神社の方が多いそうです

コンビニって・・・

あんなに至る所にあるのに

それよりも神社の方が多いなんて

こりゃなんとも
アメージング!ですよね

だってですよ

土地って、めちゃんこ価値があるものじゃないですか

不動産、財産
価値ある「土地」

いわば、土地ってお金とイコール

それなのに
その土地を古来のまま据え置いて
現代に引き継いでいるわけです

科学がこんなにも発展し

やれ、インターネットだ

やれ、AIだ

やれ、エビデンスが大事だ!
と声高らかに謳っている現代社会

今ここにきて
こんなにも神社が守られているというのは
只事じゃありませんよね

手をあわせて、祈る横顔

わたしは
子供のころから「神社」という場所が大好きでした

理由はわかりません

が・・・おそらく

神社って聖域なので
鳥居をくぐると空気が変わるじゃないですか

俗世間と聖域

普段暮らしている生活圏とは違った
あの澄んだ空気感が
なんとも心地よかったのです

息ができるというか

なにか「ゆるし」のなかに佇むような気分になったものです

わたしは子供のころから

「人はなぜ生きているんだろう?」

「私はどこから来てどこへ行くのか?」

「時間とはなんだろう」

「存在するってどう証明するんだろう」

そんな抽象的なことばかり考えていました

大人になっても
相変わらずそんなことばかり考えてます

大学生になって

当然のように
神様の存在についても
興味を持ちました

わたし自身はずっと無宗教で
家族もみんなそうです

なにか特定の宗教、というよりも

神の存在そのもの・・・

「宗教学」そのものが気になったのだと思います

大学生だったわたしは
いくつかの教会に足を運びました

寺社仏閣以外の祈りの場というものを見てみたい・・・
という一種のフィールドワーク的な気持ちで
教会の門をたたきました

日曜礼拝に参加させていただき

教会の方々の話を聴き

讃美歌を歌い

祈りを捧げました

いくつかの教会で
たったの数回程度ですが
そういった礼拝を体験させていただき

今でも当時のことを振り返って
ありがたい経験だったな・・・と
感謝の気持ちを持っています

そういった経験のなかで

キリスト教礼拝や寺社仏閣を訪れたときに

いつも見惚れてしまうのが

人々の“祈りの横顔”です

祈る人

なぜ、手を合わせて目を瞑り

少しうつむきながら祈る横顔は

あんなにも美しいのでしょうか

おとなも子供も

すべからく

祈る人の横顔の美しさ

それはまるで
雲の切れ間から差し込む
光のように見えます

祈りとはなんなのでしょうか

祈りの美しさ

その正体はなんなのか

現代科学をも超越する

祈りのチカラ

わたしたちは
その答えを知る日が
いつかやってくるのでしょうか

日本人は無宗教?

よく、日本は宗教に関心がない国民性だ、と言われますね

たしかに・・・

思い返してみても

私の周りに日常的に神の話をする人もいなかったし

宗教というと

なんか、アヤシイ…とか

特別なものって感じがありますよね

しかし

ここには矛盾があるのです

確かに日本では
宗教をなにかオカルトチックに
とらえる風潮もありますが

同時に
いろいろな神への儀式が
生活の中に溶けているのです

いちばん身近なもので言えば
初詣や盆踊り(夏祭り)

それから

クリスマスやハロウィン

手をあわせる祈りのポーズは

「いただきます」
「ごちそうさま」
「お願いします」
「ごめんなさい」

こんな普段のご挨拶でも
使っていますしね

日本は
八百万の神がいる、と言いますが

もっと言えば

多神教も一神教も
同時に成立しているような
不思議な構造を持っているのです

日本は無宗教なのではなく

あまりにも「神」というものが
生活に根付いてしまっている

日本に溶けてしまっているがゆえに

神の存在を知覚できないだけではないか?と
思えてくるのです

たとえば

海を泳ぐお魚に

「水のなかは気持ちいいかい?」と訊いても

「水ってなに?」と答えるでしょう

彼らは生まれてからずっと水の中にいるから
水ってものを知覚できていないのです

わたしたちだって

知識として空気というものを知っているから

空気の中で過ごしているとわかっているだけで

赤ちゃんに「空気の味はどう?」と訊いても

「空気ってなに?」と質問返しされるはずです

魚が「水とはなんなのか?」と
普段考えないように

赤ちゃんが空気の存在を知らなかったように

神があまりにも呼吸のように
我々日本人に組み込まれているため
神の存在を認識しにくいのではないかと思うのです

これはつまり

逆説的にいうと

宗教を強く意識するというのは

神と距離があるときなのだ、と言い換えることができます

日本人は、無宗教なのではなく
限りなく神と合一している精神性であるがため
まるで無宗教のような表面形態になっているのかもしれません

目に見えないものへの崇敬

科学がこんなにも発展し
インターネット社会になっても
なお神社の数がコンビニより多いのは
目に見えない祈りや
その延長線上にある神が
真実であることの何よりの証拠だと感じます

わたしがツインレイという
言葉に出会ったのは
2018年ごろのこと

そこから、インターネットで
ツインレイについての情報を
たくさん読んでいきましたが

2022年から
1年以上時間をかけて
じっくり神話の世界と向き合う時間を設けました

日本神話をはじめとして
世界の神話まで(^。^)

ツインレイという概念自体
キリスト意識とのチャネリングにより
降ろされたメッセージです

ですから
ツインレイを知っていくには
やはり聖書や神話の世界を冒険することが
ツインレイ理解の重要な要素のひとつとなるのです

おそらく

ツインレイという言葉に出会った人は

もれなく神話の世界に
足を踏み入れることになるはずです

これまで生きてきて

「神々の世界」にまったく興味なかった人も

神の存在について
想いを馳せるように
いざなわれるはずです

そこからまた

あなたの壮大な人生の

新たな第一歩がはじまるのです

どんな旅になるでしょう?

楽しみにしていてくださいね(^ ^)

【 完 】