かの聖人は受け取らなかったけど

僕は窓の外に目をやった

ひょろりと高い木の枝と
揺れる木の葉があるばかりで
とくに見るものがない

ここは四角い部屋

加湿器の音だけが
シューシューと沸き立っている

久しぶりに会う母と姉貴
晴子おばさんの3人が
ちょっと離れたところで
椅子に座っている

誰も喋らない

白い病室だ

ベッドには
危篤状態で
意識のない僕の父が
やっぱり白い顔で横たわってる

齢60になる父親の顔は
陶器みたいで
なんともない

母と姉貴と叔母は
神妙そうな顔つきで
灰色みたいに俯いてるけど
本心はどうだろう?

父親は
たしかにイヤな奴だった

自分が目立つことしか考えない

自分が得することしか考えない

自分・自分・自分・・・
人のことに一切興味がなく
ケチな人だった

そのくせ八方美人で
嘘の謙虚さを撒き散らすような
ハダカの王様

イヤなやつ
ああ、まったく
イヤなやつだった

女性である母や姉貴は

まるで己の手足のように扱われていた

父にとって周りの人間は
冷蔵庫や洗濯機と同じようなものだ

自分を楽にしてくれるもの

自分のやりたくない仕事を
引き受けてくれるもの

責任さえも引き取ってくれる
便利な電化製品

父にとっての家族は
そういう存在であり

それ以上でも
以下でもない様子で

母や姉貴に対して
意志を持つひとりの人間として尊重する、という概念が皆無のようだった

そんならそれで

母も姉貴も
さっさと距離を取ればいいものを

なぜか父に対して「いい子ちゃん」で

ふたりは父の気に入るように
たいていは振る舞っていた

一度、腹に据えかねたらしい母が
家を飛び出して
父と決別しようと試みたことがあった

当時、僕はまだ小学生で
大きなカバンを抱えた母と一緒に
母の実家へ向かう列車に乗ったことを覚えている

列車のなかで
母は泣いていた

流れる車窓を見つめる
母の横顔

僕は何も言わずにいた

心配なんかない

あのとき僕は
平気だった

ずっとずっと
穏やかな気持ちだったんだ

実家にいるときの母は
なんだか息がしやすいように見えた

でも

しばらくしてから
母の実家に父が迎えにきて

またもとの家族に戻った

あっという間に
元どおり

パチン

シャボン玉が消える

僕は大人になってから

母に

「離婚すれば?
なぜ大事にされてないのに
一緒にいるの?」

そう言ったことがある

母はなんだかんだ言って
踏ん切りがつかない様子で
結局いつも元のサヤに収まっていた

心のどこかで
父に対して
何か決別できない
縋りたいようなものがあったんだろうと
僕は予想する

父はつまるところ

そういう「弱い人」たちに囲まれて

そういう弱い人たちに
自分のさらなる弱さを押し付けながら
十分、幸せに生きていた

自分の至らなさによって
発生した責任も
不甲斐なさも

ぜーんぶぜんぶ
なかったことにして
十分、楽して幸せな人生を全うした男だった

かの聖人はこう言いました

「人の悪意は受け取らなければ良い

誰かが自分に贈り物をしてきたとして
その贈り物を受け取らなかったらどうなる?

されば、その贈り物は
送り主の元へただ返っていくのだ

つまり
誰かが自分に悪意を向けてきたとして
それを受け取らずにいれば
その悪意は自動的に相手に跳ね返っていくだろう」

ほうほう、なるほど
ごもっとも

“因果応報”ってやつと
似てますね?

しかし、どうだろう

その悪意という名のプレゼントを
相手がしっかり受け取ってくれたら?

弱さゆえに
受け取り続けてくれたら
いったいどうなる?

今日もどこかのお家で

ママは子供に言って聞かせる

「悪いことしちゃダメよ。
悪いことしたら、じぶんに返ってくるんだからね」

ママは茶目っ気たっぷりに
”わかった?”とでも言いたげに
子供に流し目をおくる

素直なあの子は

お気に入りの絵本を抱きしめ

そうかぁ〜とうなずく

窓の外を清潔な風が撫ぜていく

どこかで誰かが

懐かしい歌を口ずさむのが
聴こえてきた

あの歌の題名は
なんだったっけ?

ああ、めぐりめぐって


わたしは我慢したんだから
きっとその分幸せになれるわ

あの人は意地悪だから
ロクな死に目に遭わないわ

ここは白い病室

不意に晴子おばさんが
椅子から立ち上がって
ハンカチ片手に体を揺らす

僕は窓の外から
病室へ視線を移した

父はまもなく
安らかに
お空に旅立つ

僕は
なんてことはない
父の顔を見つめながら

またひとつ
この世の嘘を知る

【 完 】