わたしのこと忘れないでと彼女は言った

若かりしころ

とある外国の博物館で
解説係をやることになったんですね

博物館を訪れた日本人に
日本語で展示室を案内するっていう

そのとき

同じ解説員として働いている
現地の人々がいました

みんな女性で
日本人の解説係はわたし一人

あまりメジャーな観光地では
なかったこともあり

日本人の観光客が訪れるなんてことは

滅多にありませんでした

たっぷりあるヒマな時間

わたしはたいてい
展示室をめぐって

メモ帳を広げながら
勉強がてら展示内容を書きとる日々

そんなある日のこと

現地の解説員とふたりで

文房具店へと買い出しに行く機会が
ありました

なんの用事で
彼女と買い出しに行くことになったか

ぜんぜん思い出せないけど

とにかく

彼女と二人っきりで
文房具店に向かいました

そのときなぜか

彼女が
オレンジ色のペンケースを買って

わたしにプレゼントしてくれたんです

「ええ?いいんですか?」

彼女とはあまり喋ったこともなかったし

特に親しかったわけでもなかったので

ちょっと遠慮する気持ちがあって
戸惑ったわたしに

彼女は明るいはっきりとした表情で
こう言いました

「これを見るたびに
私のこと思いだしてね!
日本に帰っても、私のこと忘れないで」

彼女はピカピカの太陽みたいに
屈託のない人でした

ショートの髪の毛がよく似合う

竹を割ったような
さっぱりとした人

クルクルまんまるお目目が
まっすぐ私を見つめて
そう言いました

その直球ストレートな物言いに

まだ学生あがりだったわたしは

なんだか
照れてしまって

あいまいに笑うことしかできず

気の利いた返しもできず

ただ
「ありがとう・・・」と

文房具店からの帰り道を歩きながら
彼女のとなりで
つぶやいたことを覚えています

彼女からしてみれば

それはなんてことない

愛嬌ある
たわむれ言葉だったのでしょう

なんとなく
気が向いたから

もうすぐ日本へ帰るわたしに

ささやかなお土産品として
くれただけだったと思います

でも

「私のこと忘れないで!」

日本人だったら

恥ずかしくなっちゃって
真っ直ぐ伝えられないような

そんな言葉を

呼吸みたいに言える彼女が
とっても眩しく見えました

私は生涯一度も

今に至るまで

そんな言葉を誰かにおくったことが
ないのです

「幸せになってね」とか

「元気でいてね」とか

相手を慮る言葉は出てきても

「わたしのこと忘れないで」

「わたしのこと、思い出してね」

「あなたの中に、わたしを宿しておいて」

そんなふうに

自分との出会いを
大事にとっておいてほしい・・・

こんな気持ちを乗せる言葉を
相手におくるってこと自体

わたしにとっては
考えもつかないことでした

何十年経っても

彼女との
この一瞬のやりとりは

わたしのなかで
褪せることなく煌めいています

わたしは彼女がおくってくれた

あの春風みたいな一場面を

彼女が放った文字通り

忘れていないのです

それがなんだかうれしくて

いつの日か
そんなことを言える人になりたいなぁ

こう思わせてくれる

晴れた青空みたいな
わたしにとって大切な記憶です

【 完 】2025.1.28,11:21pm公開